あんびるやすこだより
猫のミー…2009年10月(2)

わたしが「あんびる便り」をサボっているあいだに、葉っぱもすっかり色づいて、秋がやってきてしまいましたね。

前回のあんびる便りでは、10月10日のサイン会のお話をしましたが、
今回はすこしだけかなしいお話をかこうとおもいます。

今年の夏。
8月に、わたしはかなしい「おわかれ」をしました。わたしのいえの猫のミーが、びょうきで死んでしまったのです。
12才でした。

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私とミーのツーショット写真です。ミー、ありがとう。安らかに・・・・。

ねこにとっての12才は、人間の65才くらい。

わたしは悲しくて悲しくて、食べることも、でかけることも、したくなくなりました。
きっともう、二度と本を書くことも、絵をかくこともできないと思ったほどです。

けれど、その間。わたしのまわりにいる人たちが、とてもしんぱいをしてくれました。
色々な人が、みんなそれぞれのやりかたで、わたしといっしょに悲しんでくれたり、はげましてくれたりしたのです。

そのやさしさとおもいやりに、わたしはとてもおどろかされました。

そしてじぶんが、こんなにたくさんのやさしいひとたちに、かこまれてくらしていたことに、はじめて気がついたのです。
それはとても幸せなこと。

そう気づいたとき、わたしはワーズワースのいっぺんの詩を思い出しました。
「草原のかがやき」という詩です。

 たとえ、夏のさかりの草原のうつくしさがもどらなくとも、なげくのはやめよう。
 のこされたものの中に、力を見いだすのだ。
 かつての、あのまばゆいかがやきが、今や えいえんにうばわれても。
 たとえ、二度と もどらなくても。

これは、ワーズワースという詩人の信仰心(キリスト教を信じるきよらかな気持ち)をうたった詩です。
生きていく中で、つらいめにあっても、その心にまだのこっている信仰心をたよりに、つよく生きていこうということが、さかりをすぎた夏のおわりの草原にたとえて書かれています。

わたしはクリスチャンではないけれど、とてもはげまされる思いがしました。
この詩は、決して忘れられない悲しみや痛みをもちながらでも、立ち直っていくことができる、とおしえています。
ミーにはもう会えないけれど、わたしはひとりぼっちになったわけではないのです。
そう思えたとき、ミーといっしょにくらした12年の思い出が、わたしの心の中で宝石のようにかがやきはじめました。
ふわふわで、やわらかくて、あたたかかったミー。
その思い出のきらめきは、これからも、ずっとかわらないことでしょう。

そうして、わたしはまた、本をかきはじめました。

それではまた、つぎのあんびる便りでお会いしましょう。