わたしが「あんびる便り」をサボっているあいだに、葉っぱもすっかり色づいて、秋がやってきてしまいましたね。
前回のあんびる便りでは、10月10日のサイン会のお話をしましたが、
今回はすこしだけかなしいお話をかこうとおもいます。
今年の夏。
8月に、わたしはかなしい「おわかれ」をしました。わたしのいえの猫のミーが、びょうきで死んでしまったのです。
12才でした。
私とミーのツーショット写真です。ミー、ありがとう。安らかに・・・・。
ねこにとっての12才は、人間の65才くらい。
わたしは悲しくて悲しくて、食べることも、でかけることも、したくなくなりました。
きっともう、二度と本を書くことも、絵をかくこともできないと思ったほどです。
けれど、その間。わたしのまわりにいる人たちが、とてもしんぱいをしてくれました。
色々な人が、みんなそれぞれのやりかたで、わたしといっしょに悲しんでくれたり、はげましてくれたりしたのです。
そのやさしさとおもいやりに、わたしはとてもおどろかされました。
そしてじぶんが、こんなにたくさんのやさしいひとたちに、かこまれてくらしていたことに、はじめて気がついたのです。
それはとても幸せなこと。
そう気づいたとき、わたしはワーズワースのいっぺんの詩を思い出しました。
「草原のかがやき」という詩です。
たとえ、夏のさかりの草原のうつくしさがもどらなくとも、なげくのはやめよう。
のこされたものの中に、力を見いだすのだ。
かつての、あのまばゆいかがやきが、今や えいえんにうばわれても。
たとえ、二度と もどらなくても。
これは、ワーズワースという詩人の信仰心(キリスト教を信じるきよらかな気持ち)をうたった詩です。
生きていく中で、つらいめにあっても、その心にまだのこっている信仰心をたよりに、つよく生きていこうということが、さかりをすぎた夏のおわりの草原にたとえて書かれています。
わたしはクリスチャンではないけれど、とてもはげまされる思いがしました。
この詩は、決して忘れられない悲しみや痛みをもちながらでも、立ち直っていくことができる、とおしえています。
ミーにはもう会えないけれど、わたしはひとりぼっちになったわけではないのです。
そう思えたとき、ミーといっしょにくらした12年の思い出が、わたしの心の中で宝石のようにかがやきはじめました。
ふわふわで、やわらかくて、あたたかかったミー。
その思い出のきらめきは、これからも、ずっとかわらないことでしょう。
そうして、わたしはまた、本をかきはじめました。
それではまた、つぎのあんびる便りでお会いしましょう。